サリドマイドと胎児毒性薬物:歴史と教訓

1957年、ドイツの製薬会社であるグリュンタール社は、新しい鎮静剤としてサリドマイドを市場に投入しました。この薬は「つわり」に効くとされ、世界中の多くの妊婦が服用しました。当時、薬の安全性は妊娠中にどう影響するかという点で、ほとんど検査されていませんでした。その結果、世界中で1万人以上が重度の先天異常を抱えて生まれ、その多くは生後1年以内に亡くなりました。これは、医学史上最大の人為的悲劇と呼ばれています。

サリドマイドが引き起こした異常とは

サリドマイドに曝露された赤ちゃんたちは、手や足が極端に短い「フォコメリア」と呼ばれる異常を起こしました。腕や脚が体に直接くっついているように見える、まるで海豹のひれのような形です。それだけではありません。顔の神経麻痺、目の異常、食道や肛門の閉鎖、心臓の欠陥、胆のうや盲腸の欠如など、体のほぼすべての器官が影響を受けました。英国政府の1964年の報告書には、「ほぼすべての組織と臓器がこの薬によって影響を受けた」と記されています。

この異常が起こる時期は、非常に狭い「致死的窓」がありました。最後の月経から34日から49日目、つまり妊娠4週目から7週目までのわずか2週間です。この期間にたった一回の服用でも、赤ちゃんに深刻な障害を引き起こす可能性がありました。医師たちは、なぜこの時期だけが危険なのか、数年も理解できませんでした。なぜなら、他の薬の副作用はすぐに現れるのに、この異常は出産まで待たなければ見えなかったからです。

悲劇を阻止したアメリカの医師

驚くべきことに、アメリカではこの悲劇がほとんど起こりませんでした。その理由は、FDAの医療官であるフランセス・オールドハム・ケルシーの判断にありました。彼女は、サリドマイドの安全性データが不十分だと判断し、アメリカでの承認を拒否し続けました。製薬会社は圧力をかけ続けましたが、ケルシーは「この薬が胎児にどのような影響を与えるか、データが足りない」と一貫して主張しました。

当時、アメリカでは薬が「安全」であれば販売できました。効果があるかどうかの証明は必要ありませんでした。しかし、ケルシーの行動は、その後の薬の規制を根本から変えました。1962年、アメリカ議会はケフオーバー・ハリス修正法を可決。それまでのように「安全」だけではなく、「効果があること」と「妊娠中の安全性」を証明しなければ、薬は市場に出せないという新しいルールが生まれました。

FDAの医師フランセス・ケルシーがサリドマイドの不十分なデータを握りしめ、周囲の承認書と対峙するシーン。

世界中の規制が一変した

ドイツでは、1961年11月15日、医師のヴィドキン・レンツが製薬会社に電話をかけ、「サリドマイドが赤ちゃんの異常と関係している可能性がある」と警告しました。12日後、ドイツでサリドマイドは販売中止になりました。英国では、12月2日に販売が停止されましたが、政府が正式に警告を出したのは1962年5月でした。

この悲劇を受けて、世界中で薬の規制が大きく変わりました。英国では1963年に「医薬品安全性委員会」が設立され、すべての新薬に対して、妊娠中の使用に対する胎児毒性試験が義務付けられました。日本を含む多くの国も、同様の基準を導入しました。今では、妊娠中や妊娠の可能性のある女性に処方される薬は、必ず「胎児へのリスク」が評価され、ラベルに明記されます。

サリドマイドの再発見:がん治療への転用

しかし、サリドマイドは「悪魔の薬」のままではありませんでした。1964年、医師のジャコブ・シェスキンが、ハンセン病の合併症である紅斑結節の治療で、この薬が驚異的な効果を示すのを偶然発見しました。その後、1998年、アメリカFDAはサリドマイドを紅斑結節の治療薬として再承認しました。

さらに2006年、サリドマイドは多発性骨髄腫という血液がんの治療薬として再び承認されました。臨床試験では、サリドマイドを服用した患者の3年後の進行自由生存率が42%と、従来の治療法(23%)を大きく上回りました。生存率も86%対75%と改善しました。この薬は、がんの血管を阻害する「抗血管新生作用」を持つことが分かったからです。つまり、がん細胞が栄養を取れないようにする働きがあるのです。

しかし、この薬には大きな副作用があります。神経障害です。患者の60%以上が手足のしびれや痛みで治療を中断しました。そのため、現在のサリドマイドの使用は、非常に厳しく管理されています。アメリカでは「STEPSプログラム」と呼ばれる制度があり、女性患者は妊娠しないよう避妊を徹底し、毎月妊娠検査を受けなければ処方されません。この薬は「人間で最も強力な胎児毒性物質の一つ」として、今でも扱われています。

現代の薬局でサリドマイドの薬瓶が赤い警告灯に照らされ、妊娠検査とがん治療の手が向かう姿。

2018年、その仕組みが解明された

サリドマイドがなぜ胎児の手足を壊すのか、そのメカニズムは60年間謎でした。しかし2018年、科学者たちはついに答えを見つけました。サリドマイドは、胎児の体内で「セレブロン」というタンパク質に結合し、手足の形成に必要な転写因子を分解してしまうのです。この仕組みは、がんの治療にも関係しています。がん細胞も、この転写因子の働きに依存しているため、サリドマイドはがん細胞の成長を止めることができるのです。

つまり、サリドマイドは「悪」でも「善」でもありません。使い方次第で、命を救う薬にも、命を奪う薬にもなるのです。

今も続く教訓

サリドマイドの悲劇は、単なる過去の出来事ではありません。今でも、世界中の医療学生や薬剤師の教科書に載っています。ロンドンのサイエンス・ミュージアムには、この悲劇を伝える恒久的な展示があります。なぜなら、この事件は、薬が「安全だ」と思われた瞬間に、どれだけ多くの命が失われるかを教えてくれるからです。

今日、私たちは「新しい薬は安全だ」と簡単に信じがちです。しかし、サリドマイドの教訓は、私たちにこう問いかけています。「本当に大丈夫なのか?」と。妊娠中や授乳中の女性が薬を飲むとき、医師はただ「効くかどうか」だけでなく、「赤ちゃんに何が起きるか」を常に考えなければなりません。そして、患者自身も、薬のリスクを理解し、質問をし続ける必要があります。

サリドマイドは、今でも年間3億ドル以上の売上を上げています。がん患者の命を救う薬として、世界中で使われています。しかし、その裏には、1万人以上の赤ちゃんの命と、無数の家族の悲しみがあります。この薬は、科学の力と、人間の過ち、そして学びの重さを、静かに語り続けています。

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コメント

Maxima Matsuda

Maxima Matsuda

30 1月 2026

サリドマイドの話、昔から教科書に載ってるけど、今でも同じこと繰り返してない?新しい薬のCM見て「安全だって言ってたじゃん」って信じちゃう人、まだたくさんいるよね。ほんと、人の記憶って短いんだなあ。

kazunori nakajima

kazunori nakajima

31 1月 2026

ケルシーさん、神レベルやん… 😭👏 あの時代に女性がFDAでこんなに強い立場を取れてたの、すごいよ。日本でもこんな人、出てきてほしい。

Daisuke Suga

Daisuke Suga

1 2月 2026

ああ、この薬の話、読むたびに背筋が凍るんだよな。60年も謎だったメカニズムが、たった1つのタンパク質の結合で説明できるって…科学って、本当に怖いし、美しい。人間が「安全だ」と決めた瞬間に、何千人もの命が消えるって、まるで神のゲームだよ。あの「致死的窓」の2週間、妊娠してた女性たちの心の叫びが、今でも耳に残る。薬のラベルに『胎児毒性』って書いてあるだけで、安心しちゃう世の中が、本当に問題だ。医者も患者も、『効くか』じゃなくて『壊すか』を常に問うべきなんだよ。サリドマイドは、がんを救う薬でもある。でも、その裏に眠る1万人の赤ちゃんの叫びを、誰も忘れてはいけない。この薬は、科学の光と闇が、一つの分子の中で交差した、人類の最も重い教科書だ。今でも年間3億ドルの売上って、なんだか、笑えないよね。

門間 優太

門間 優太

2 2月 2026

確かに、薬のリスクは過小評価されがちだけど、サリドマイドのケースは特別すぎる。今も使われてるってことは、リスクとベネフィットのバランスを取る努力が、ちゃんと進化してるってことでもあるよね。

利音 西村

利音 西村

3 2月 2026

あーあ、またこの話か… うん、うん、すごい悲劇だよね、でももう2020年代だよ??? みんなもっと新しいニュース見なよ!!!

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